専念寺 ・ せんねんじ (浄土宗)
■所在地:尼崎市寺町12/阪神「尼崎」南西約650m
 平安時代、平重盛(たいらのしげもり)が法然上人に帰依し、同上人の弟子にし仙坊心寂を招いて治承元年(1177)、東長州に健立したと伝えられています。本尊は阿弥陀如来、両脇には善導大師(中国唐代の浄土教祖師)と圓光大師(法然上人)像が安置されています。
 元和年間(1615〜24)尼崎城築城に伴い現在地に移転しました。平重盛の菩堤所となりましたので、朝廷から朱塗りの山門を許されたと伝えられ、山門に朱色を施して通称「赤門の寺」とよばれています。山門は本柱の内方に控柱二本を建て切妻部屋をかけた簡素な門である薬医門ですが、当寺の山門はその代表的な形式を持ちながらも表門としての風格を備えています。
 当寺には数多くの仏像が残されています。中でも観音堂本尊の「十一面観音立像」は、宝塚市中山寺の本尊と同一作者によると伝えられています。(尼崎市教育委員会)

◎平重盛 たいら の しげもり(1137〜79)
 清盛の嫡男。保元の乱・平治の乱では父 清盛とともに奮戦。功をあげ、平家全盛の時代には正二位内大臣になりました。『平家物語』では、清盛のみごとな悪役振りに対して、重盛は好人物に描かれています。
 たとえば。1170年10月16日、重盛の次男 資盛(すけもり。1161〜1185、当時、越前守五位、13歳)の一行が摂政従一位 藤原基房(1144〜1230)の一行と路上で行き会ったとき、当然、身分の低い資盛側が馬から降りて、行列が過ぎるのを待たなければならないのですが、資盛は下馬の礼儀を取りませんでした。基房側はその無礼に資盛らを馬から引きずり落として、辱めを与えました(史実では7月3日)。これを知った清盛は報復に出ようとしますが、重盛は資盛の非礼を戒め、清盛の暴走を抑えようとします。しかし、清盛は、参内途中の基房を60余人の武士に襲撃させるという報復を実行。 重盛は怒り、それに関わった武士を勘当し、資盛をしばらくの間、伊勢国に流します(史実では重盛が襲撃させたらしい。慈円の日記『愚管抄』にはそう書かれています)。
 また、平家打倒を謀議していた後白河法皇とその近臣たちに対して、清盛は容赦ない処罰をくだそうとしますが、重盛はその制止に奔走。首謀者の藤原成親は当然、処刑にするはずでしたが、重盛の説得にあって、流罪に減刑しました。後白河法皇に対しては、鳥羽の離宮に移して軟禁しようとまで清盛は考えていましたが、やはり重盛の説得にあって、法皇についてはお咎めなしということになりました。重盛は、清盛に対してものをいうことができる、清盛の横暴を抑えることができる唯一の人物でした。

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