如来院 ・ にょらいいん (浄土宗)
■所在地:尼崎市寺町10−2/阪神「尼崎」南西約550m
◎参考 本堂・表門、銅鐘、石造笠塔婆、遊女塚
 当院は、元祖円光大師(法然上人)25霊場第4番札所です。沿革、奈良時代に聖武天皇の厄除けを祈願して、行基菩薩が神崎(尼崎市神崎町)に、神崎釈迦堂を建立したのが始まりと伝えられています。
 当院には
「遊女物語り」が語り継がれています。鎌倉時代に「法然上人」が神崎に立ち寄られた時、お説教を聞いた五人の遊女達は、頭の黒髪を切りとり出家者となって、お念仏を称えながら入水往生しました。
 その後、当院は戦国時代、城主細川高国の菩堤寺となり、旧尼崎城下(現在の大物町)に移り、江戸時代には現在の寺町へ移転しました。
 当院の銅鐘(指定文化財)は、応永32年(1425)の年号があります。始めは島堂(現在の豊中市内)の観進寺のものとして鋳造されて、のち伝来したものです。また、県下に誇る石造美術品として、花崗岩製の笠塔婆(指定文化財)があります。嘉暦2年(1327)、両親の33回忌の供養の為に建てられたものです。(尼崎市教育委員会)
【本堂】
 桁行(けたゆき)8間(12.230m)、梁間(はりま)9間半(13.275m)、 寄棟造 (よせむねづくり)、銅板葺の建物で、残されている棟札から元禄9年(1696)に建立されたことが知られます。内部は前面二間通りを 外陣 (げじん)とし、奥中央の三間四方を 内陣 (ないじん)、その左右を脇陣とします。内陣中央奥に 須弥壇 (しゅみだん)を据え、脇陣正面奥は位牌壇を設けています。柱は縁柱(えんばしら)および位牌壇背面から背後の柱を除いて全て円柱が使われ、柱の上部には組物が設けられています。
 内陣の天井に描かれている龍図は、落款(らっかん)と印章から、大岡春卜(しゅんぼく)の門弟といわれる大坂の絵師江阿弥(ごうあみ)卜信(ぼくしん)の作であり、制作年代は江阿弥61歳の宝暦3年(1753)と考えられ、本堂建立から約50年後に描かれたものであることが判明します。
 建築年代が明らかなうえ、一部に改変が見られるものの、内部に組物を採用した総円柱本堂としては、極めて貴重な遺構といえます。(資料:尼崎市)
【表門】
 桁行(けたゆき)1間(2.885m)、梁間(はりま)1間半(1.455m)、切妻造(きりづまづくり)、本瓦葺の薬医門(やくいもん)です。簡素な門ですが男梁(おばり)や女梁(めばり)の先端の繰形(くりがた)はのびやかで、品位のある門です。建築年代を示す資料を欠きますが、様式的には本堂建立と同時期の17世紀末頃の建築とみられます。(資料:尼崎市)

【棟札】
 長さ101.9cm、幅18.0cm、厚さ1.6cmの板の表に「奉再建供養・・・源蓮社専譽愚計上人/于時/元禄九丙子暦六月吉日」、裏に「大工棟梁 摂州尼崎住/松井市郎兵衛藤原氏辻端正勝」と墨書され、如来院本堂が尼崎の大工松井市郎兵衛によって元禄9年(1696)に建立されたことが分かります。保存状態は極めて良好で、同年月の墨書がある箱に収められていたとみられます。(資料:尼崎市)

【銅鐘】
 如来院境内の南西隅に建っている、鐘楼にかけられた青銅製の銅鐘。総高89.8cm、龍頭高16.4cm、鐘身高65.9cm、口径52.0〜52.9cm、爪(鐘身最下端部)の厚さ5.5cmあります。下端はほぼ水平で、乳は4段4列で完存し、撞座(どうざ)は2面に刻出されています。
 2区にわたって下記の陰刻銘があり、応永32年(1425)に摂津国椋橋嶋堂の勧進寺の鐘として鋳造されたことが本銘で、また、鋳造後19年を経た嘉吉3年(1443)に丹波の西楽寺へ買い取られたことが追銘によって知られますが、如来院の所有となったいきさつはまったく分かりません。
 現在市内には多くの銅鐘が残されていますが、本鐘は銘記によって鋳造年代が最も古いこと、また、鋳工が知られ、かつ所在の変化が追銘によって知られることなど貴重な歴史資料といえます。(資料:尼崎市)
【笠塔婆】
 門内すぐ左手に塀を背にして、北に向いて立っている花崗岩製の笠塔婆です。塔身の上端を欠失していますが、現存高184.8cmあり、正面に嘉暦二年(1327)の年号が刻まれていて造立年代が明らかです。
基礎の正面は格狭間を入れず、相対する孔雀を彫りだしています。塔身は方柱状で上端が欠けています。正面は上部に地蔵立像を肉厚彫りし、下部に合掌する俗形坐像二体を刻出し、その間に5行の銘文が彫られています。他の3面は書体を変えた六字名号を配し、その下に蓮華座を薄肉彫りしていて、銘文から亡き両親の33回忌にあたり子供が建てたものであることが分かります。
  尼崎地域だけでなく、この頃の石造美術として代表的なものであるといわれています。(資料:尼崎市)
遊女物語り【遊女塚】
所在地:神崎町34 「松ヶ枝公園内遊女塚」
 神崎川と淀川が奈良時代の延暦4年(785)に結ばれ、瀬戸内海方面から京に至る船泊が神崎に停泊するようになりました。次第に河口の港町として繁栄し、「天下第一の楽地」と呼ばれるようになります。遊女たちは今様など諸芸を泊客に披露し、宴遊に興じる人々でにぎわっていました。
 法然上人と五人遊女の説話にゆかりのこの塚は、碑面表面に「南無阿弥陀佛」の名号と、その両側には「阿弥陀佛という女の塚の極楽ハ発心報土のうちの春けき」と刻まれ、側面には元禄5年(1629)6月の年紀銘、裏面には遊女五人の名(吾妻・宮城・刈藻・小倉・大仁)が刻まれています。(資料:尼崎市)

 天平年間、行基菩薩の開いた神崎釈迦堂の四十九院の一つと伝えられる。建永2年法然上人が讃岐の国へ御配流の途中、尼崎の神崎に着かれ多数の遊女を化益された処である。宮城ら遊女5人は罪業を懺悔して、上人にお念仏を授かり入水往生を遂げた。上人懇ろに念仏回向され旅立れ、勅免によって御帰洛の折にもこの釈迦堂で遊女達の為に念仏回向された。この時道俗多く集まり法然上人の御徳を仰ぎ、お念仏が弘通されたと伝えられている。

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