広徳寺 ・ こうとくじ (臨済宗)
■所在地:尼崎市寺町8/阪神「尼崎」南西約350m
 当寺と隣接の栖賢寺(現在京都市)とを永禄年間(1558〜70)再興したのが4代目住職笑嶺宗訴です。
 当寺は豊臣秀吉から寺領をもらったといわれています。徳川二代将軍秀忠の朱印状には寺領30石と記されている由緒ある寺院です。昭和20年6月の空襲により全焼しましたが本堂を再建し、紫衣を許された寺院としての格式を保っています。
 天正10年(1582)秀吉が、明智光秀を追討するため、京都山崎へ向う途中、尼崎に着き、付近に禅寺を求めて休憩した話と、伏兵を避けるため逃げこんだ話とが伝わっています。秀吉と尼崎の関係は絵本大功記十段目の「尼崎の役」として知られています。本尊は桧材の坐像で、かまくら時代の作とも、当寺創建ごろの明徳年間(1390〜1394)の作ともいわれています。他に秀吉画像、朱印状、寺領目録などが残されています。(尼崎市教育委員会)

【豊臣秀吉朱印状】(とよとみひでよししゅいんじょう)
・法 量 29.9×48.3cm
・形 態 紙本墨書軸装
・年 代 天正18年10月8日
 豊臣秀吉が有馬温泉での湯治の見舞いに贈られた松茸200本の礼を建部寿得軒(たけべじゅとくけん、寿徳・高光)ら3人に述べたものです。建部氏 は豊臣秀吉の時代に尼崎郡代をつとめた武士で、はじめは近江六角氏、続いて織田氏に属し、本能寺の変後は秀吉に仕えて、若狭郡代を経て尼崎に入りました。天正14年(1586)の島津攻めでは小西隆佐とともに兵糧や馬の調達・運送を担当しました。慶長12年(1607)に尼崎で没し、尼崎郡代は息子の光重に引き継がれました。
 秀吉は湯治のために度々有馬を訪れましたが、10月前後に出かけているのは、天正18年(1590)だけで、本文書はそのときに出されたものと推定されます。

【伝説】
◎太閤の味噌すり鉢
 1582年、本能寺の変の時、豊臣秀吉は中国地方から大急ぎで軍勢を引き返します。急ぎすぎた秀吉は1人になってしまい、明智勢に襲われます。そのとき秀吉が逃げ込んだのが当時大物にあった広徳寺。敵に囲まれた秀吉は、急いで髪をそり落とし、僧に化けます。そして寺の僧と一緒に台所で味噌をすり、負っ手の目を欺いたとされるすり鉢とすりこ木が今も広徳寺に残っています。(資料:尼崎市)

◎大物くずれ(だいもつくずれ)
・所在地:尼崎市東大物町1丁目4
・阪 神:「大物」西約150m
 戦国時代、室町幕府の実権を握った細川氏も、内部で対立がありました。細川政元の養子高国と同じく養子の澄元・晴元父子が対立し尼崎の地でたびたび戦火を交えています。享禄4年(1531)の両者決戦では、高国勢は総くずれになり、尼崎へ逃げ込む程の大敗となりました。追撃は激しく高国は大物の『広徳寺』で自刃しました。この戦いを「大物くづれの戦い」とよんで語り伝えられてきました。(資料:尼崎市)
ページのTOPへ戻る