長遠寺 ・ ぢょうおんじ (日蓮宗)
■所在地:尼崎市寺町10/阪神「尼崎」南西約500m
◎参考:本堂、多宝塔、鐘楼、客殿、庫裏
絹本著色涅槃図、紙本着色日蓮大聖人註画讃、鰐口・雲板、長遠寺文書
 本尊は題目宝塔と釈迦多宝の一塔二尊です。当寺の「大尭山緑起」観音元年(1350)永存院日恩人上人の開基と伝えられています。はじめ尼崎の北は、七ツ松に草創されたものといわれていますが、その後市場・巽(辰己)−現在の東本町にあたる地に再興され、元和年間(1615〜24)の尼崎城築城に際して現在地へ移転しました。
本堂は入母屋造、本瓦葺です。柱上の組物や幹屋根の傾斜などに桃山時代の建造美をうかがうことができます。昭和56〜58年の解体修理によって慶長3年(1598)に建立され、元和9年(1623)に当地に再建されたことが判明しました。
 多宝塔も、棟札に慶長12年(1607)とあり、移築されたものと考えられています。塔身は円形で幹そりがの形が良く、組物や蟇股などの形態には桃山時代の特徴が良く表れています。いずれも国の重要文化財に指定されています。客殿、庫裏、鐘桜の三棟は慶長の頃の重要な建造物であり、指定文化財に指定されています。
 その他室町時代の銘をもつ鰐口・雲板、裏書に永録8年(1565)と記された絹本著色涅槃図、元亀3年(1572)〜天正16年(1588)にいたる古文書が指定文化財に指定されています。(尼崎市教育委員会)
【本堂】
 長遠寺は大堯山(だいぎょうざん)と号する日蓮宗寺院で、観応元年(1350)、永存院日恩によって七ツ松に創建されたと伝えられています。その後、尼崎町の巽(辰巳)に再興され、法花寺と呼ばれていましたが、元和3年(1617)、尼崎城築城にともない現在地に移転しました。元亀3年(1572)の織田信長の「禁制」には「摂州尼崎内市場巽長遠寺」とあり、戦国時代の末期には現在の東本町2丁目あたりにあったことが分かります。
 本堂は、桁行五間、梁間六間、入母屋造り、本瓦葺きで正面中央一間に 向拝 (こうはい)を設けています。建立年代は慶長3年(1598)及び元和9年(1623)の棟札がありますが、昭和56〜58年の修理により元和9年の建築であることが明らかになり、現在地建築であることが確認されました。
 構造形式は、正面に3段の木の階段をすえ、 擬宝珠 柱(きぼしばしら)をあて登高欄(のぼりこうらん)つき、縁は四周につけ擬宝珠高欄を置く。 向拝柱 は面取り角柱、主屋柱は円柱。 内陣 は堂中央の三間四方をあて、その両脇を脇陣とする。内陣中央背面よりに 須彌壇 をすえ、上方に彩色を施しています。この堂は日蓮宗寺院に特有な構成を示すと同時に、平面の構成や改造の時期を知ることができ、その復元平面が中世から近世への過渡的な形態を示す点でも重要です。(資料:尼崎市)
【多宝塔】
・建造物:1棟 国指定重要文化財
 方三間2層、本瓦葺きの建物。多宝塔とは仏塔の一形式で、本来多宝如来を安置する塔のことです。
慶長12年(1607)東町(旧市場巽)の旧境内地に正面を西に向けて建てられました。その後元和3年(1617)に尼崎城築城にともない現在地に移転しましたが、その際多宝塔の正面を東に向けて建て直されたことが、阪神・淡路大震災後の保存修理の際の解体によって判明しました。
 多宝塔の上層は12本の円柱を円形に建て、下層は方三間、周囲に擬宝珠高欄付きの縁をめぐらせ、縁の下には 亀腹 (かめばら)と呼ばれる四分円形の白の漆喰塗りの土壇が築かれています。
 内部は 来迎柱 (らいこうばしら)を立てて来迎壁、 須彌壇 (しゅみだん)を設け、正面には釈迦如来が祀られ、その両側には千躰の仏像が安置されています。須彌壇には「天女の図」、南側扉内側には「如来像」、北側扉内側には「愛染明王像」・「不動明王像」が描かれています。(資料:尼崎市)


◎長遠寺境内の桜が満開です (撮影:2007年4月2・5日)
【鐘楼】(しょうろう)
・建造物:1棟、兵庫県指定重要文化財
・指定日:昭和40年3月16日
 多宝塔の北側に隣接して建てられている、桁行三間、梁間二間、袴腰付き、入母屋造り、本瓦葺で東面する建物で外観は各部のつりあいがよく整っています。棟札から寛永14年(1627)に建立後、寛延3年(1750)に屋根の葺替え等を行っていることが分かります。

 柱円柱、台輪をすえ、内法長押を打ち、側面中央にのぞき連子を納めています。二手先の組物、蓑束など細部の様式手法は本堂や多宝塔と同様で、桃山時代の特徴を示しています。
  平成7年の兵庫県南部地震では大きな被害を受けたため、屋根葺き替え・部分修理を行いました。(資料:尼崎市)
【客殿】
 桁行七間半、梁間五間半、入母屋造り、平入り、本瓦葺。棟札によって慶長16年(1611)に建立され、宝永4年(1707)10月4日の大地震で倒壊したことが分かっています。
 建物平面は、六間取りの一般に見られる形式をもち、広縁を正面と左側(西側)の二面にまわし、この二面の外側に一段低く落ち縁をめぐらせています。前面三室は中央に12畳半、その両脇に10畳間2室を配し、襖で仕切っています。ただし、 内法長押 上には欄間は入らず、 蟻壁長押 がまわるので、この三室にはあまり一体感はありません。背面の三室は奥行き二間をとり、中央に 内陣 、向かって左に付け書院を有する上の間、右に納戸を設けています。阪神・淡路大震災後の保存修理工事の際、近代になって改変された部分、書院北側の後設の壁や柱を撤去して北に50cm張り出した床の間を復元し、西側の広縁北端の押入れを撤去し元に復した工事を行いました。柱は大面取り、軒は一軒疎とし、全体の意匠簡明清楚で、よく時代の特質を表しています。建立後に度重なる修理を受けているが、概ね当初の規模を伝えており、桃山時代客殿として本興寺の客殿(方丈)に次ぐ貴重な建物です。(資料:尼崎市)
【庫裏】
 桁行七間、梁間六間、切妻造り、本瓦葺のほぼ正方形の建物で、妻正面に大戸口を開けて、8畳3室、6畳3室、12畳1室と台所、土間で構成されています。本堂の背後に位置し、西側の客殿との間には中庭を設け、渡り廊下によってつながっています。平成5年に行われた部分修理の際、南妻の 懸魚 裏面に寛文8年(1668)の墨書が見つかり建立年代が明らかになりました。大戸口を入ったところが入り口土間で、広舗・6畳・10畳・台所板間は台所土間と台所土間境を建具で仕切るのみで、大梁上に縦横に通した 貫 で固められた、小屋束が林立する屋根裏を見せた広々した空間をつくっています。北側の諸室には増改築のあとが見られますが、他は大体当初の規模を伝えており、特に注目すべきところは、正面の妻飾りが禅宗の庫裏のそれに似たものを示している点であると云われています。
  平成7年の兵庫県南部地震では大きな被害を受けたため屋起こし補強工事をおこないましたが、後世の抜本的な保存修理事業が待たれます。(資料:尼崎市)
 

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