本興寺 ・ ほんこうじ (法華宗)
■所在地:尼崎市開明町3丁目13/阪神「尼崎」南西約250m
◎参考:三光堂、開山堂、祖師堂、方丈、三光堂向唐門、鐘楼、

御霊水井戸、笠塔婆、木造日隆昌人坐像、海北友松筆押絵貼屏風、本興寺文書、太刀(銘恒次)、流水文銅鐸
 法華宗四大本山の一つで、応永27年(1420)日隆上人の開基した寺院。開山堂・三光堂・方丈は室町・桃山時代のすぐれた建造物として国の重要文化財に指定されています。
 開山堂の日隆上人坐像(重要文化財)は、生存中に堺の仏工浄伝に命じて作らせたと伝えられています。方丈・開山堂などが兵庫県南部地震で大きな被害を受けたため3年かけて修理工事を行いました。(資料:尼崎市)
【本興寺 年中行事】
1月1日:元旦祝祷会
2月節分:節分会
2月25日:日隆聖人御正当法要
3月中日:彼岸会
5月7、8日:法華千部国祷法要
8月16日:うら盆施餓鬼法要
9月中日:彼岸会
11月3日:虫干会
11月12、13日:宗祖日蓮大聖人御会式
12月31日:除夜法要

【虫干会】
毎年11月3日の“文化の日”に開かれる「虫干会」で国指定重要文化財などの寺宝を公開しています。
平成18年11月3日 宝物殿展示品目

【三光堂】(さんこうどう)(重要文化財)三間社流造銅板葺
 拝殿は慶長ニ年(1597)豊臣秀吉、加藤清正の再建である。三光堂というのは、三光天子、鬼子母神、日本大小の神祇等の、法華経信徒守護の善神を祀る故名づけられた。細部の手法甚だ巧みで、ことに草花彫刻をはめた蟇股や木鼻の絵様彫刻、欄間の透刻などは桃山時代の面目が躍動している。
 その他の装飾にも、随所に精妙な毛彫を施した金具をはじめ、局彩色を施すなど善美をつくしている。昭和27年、文部省によって解体修理、昭和60年に彩色の補修が行われた。(資料:尼崎市)

【三光堂向唐門 】
・建造物:1棟(尼崎市指定文化財)
・指定日:昭和60年3月30日
 一間一戸向唐門で、三光堂の拝殿脇に建てられています。上方に粽(ちまき)があって円形礎盤上にのり、控柱は几帳面取り角柱で、主柱と貫二通りでつないでいます。頭貫は顰(しかみ)のある渦巻き付き木鼻となり、台輪がのっています。 斗供(ときょう)は小柄な 出三斗(でみつど)で 肘木 (ひじき)に笹繰り(ささぐり)がとられ、 実肘木 (さねひじき)がついて禅宗様の特色がよくでています。
 虹梁(こうりょう)の 袖切 は、曲線形で折点のある渦と若葉がつく。虹梁上には蟇(かえるまた)が置かれていますが、正面蟇股内には牡丹唐獅子の丸浮き彫り彫刻を入れ、背面蟇股では表裏に円形輪郭にかこまれた家紋を刻んでいます。扉回りには 地貫(じぬき)・方立(ほうだて)を入れ、地貫及び頭貫に 藁座 (わらざ)をうち、上方に 連子 (れんじ)の入った桟唐戸を内開きに取り付けています。
 屋根本瓦葺で、棟積み輪違い入り、棟端に家紋の鬼瓦をのせています。建立年代は明らかではありませんが、様式上江戸時代前期に属するものです。(資料:尼崎市)
【祖師堂】
 宗祖日蓮大聖人の御尊像を奉安、脇座に両山歴代日登(三世)、日与(六世)、日諦(十一世)、日承(十二世)、日尭(十三世)、日○(十五世)、日庸(十八世)の各上人の木像が祀られている。文政五年(1822)に消失したが嘉永六年(1852)八十三世日量上人によって再建された。(資料:尼崎市)
【本堂】
 桁行5間、梁間6間。入母屋造り本瓦葺き。周囲に緑をめぐらし、東西10間、南北8間。文政5年(1822)に類焼。同10年4月1日再建。昭和37年(1962)外陣を改修。(資料:本興寺)
【開山堂】(かいざんどう)
 本興寺開山堂は本堂の北西に位置し、南面する建物で、堂内には日隆上人像が安置され、文庫堂とも称されています。
 建立年代は文正元年(1466)、または永正10年(1513)とする説があります。昭和38年の修理工事の際に発見された棟札には永禄元(1558)とあり、この時最初の開山堂(御文庫堂)を現在の開山堂に改築したと考えられています。建立当時は、三間四方(内陣)の入母屋造り、本瓦葺の建物でしたが、明暦2年(1656)前面に二間の外陣 (げじん)を追加、ついで天和3年(1683)には後方に四間の内々陣及び後陣を増築しているため現在では複雑な構造になっています。
  内陣は金箔押の円柱を建てて置上(おきあげ・白色の顔料をもりあげて下地をつくる技術)彩色の頭貫 (かしらぬき)・大虹梁(おおこうりょう)などを架け、置上彩色の出三斗(でみつど)詰組を乗せており、軒は二軒扇垂木(ふたのきおおぎだるき)とし、いづれも禅宗仏殿風の様式をとっています。(資料:尼崎市)
 
【開山堂内部】
 享徳3年(1454年)堺の仏師浄伝(じょうでん)に刻ませた御木像は聖人みずから開眼したもので、現在、開山堂に奉安されていて、今でも参詣の人々が絶えません。昭和の大修理の時、天井に描かれている龍が見つかりました。(資料:本興寺)
【方丈】(ほうじょう)(附 棟札2枚)
・建造物:1棟(国指定重要文化財)
・指定日:昭和49年5月21日
 本堂の北側に位置し、桁行十間、梁間七間、入母屋造り、本瓦葺の建物で、前面に一間半の広縁(半間はのちに拡張)、東側に一間の広縁がめぐっています。
 建立年代は天文17年(1544)の棟札が残されていることから元和に移築されたのではないかといわれていましたが、昭和56年の解体修理の調査で軸部に解体した形跡がないことが確認され、元和3年(1617)この地に移転した際の建築であることが棟札の存在とともに明らかになりました。
  保存されている天文13年の棟札はおそらく移転前に存在した建物のものと思われ、移転時に持ってきたものであろうと考えられています。
  平成7年1月17日の阪神・淡路大震災では大きな被害を受け半解体修理を行いました。

  南向きの正面東寄りに玄関、内部は6間取りで、南側に3間四方(18畳)の3室、北側に2間半(15)畳の2室及び西端に書院付き上段の間、北側2室の外側に濡れ縁付きとしています。
  この方丈は客殿とも呼ばれていて、戒壇院として使用されていたので、元和・慶安の棟札では戒壇院・戒壇精進院と記されています。
  方丈内各室の壁面・襖には曽我招興(そがしょうこう)の水墨山水画や法橋(ほっきょう)高平春卜(たかひらしゅんぼく)の人物・花鳥画が華麗に描かれています。(資料:尼崎市、本興寺)


【三重宝塔・霊廟壇 】
壇信徒向けの納骨所として開放されています。(資料:本興寺)
【鐘楼】(しょうろう)・・・大晦日には鐘をつく人の列ができます。
・建造物:1棟(兵庫県指定重要文化財)
・指定日:平成15年3月25日
 桁行3間、梁行2間、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺の袴腰(はかまごし)つき鐘楼で、東面中央に片引きの出入口を設けています。
 上層では、腰長押(こしなげし)と内法長押(うちのりなげし)の間に連子窓(れんじまど)を入れ、唐様木鼻(きばな)つきの頭貫(かしらぬき)および台輪を納めて、和様二手先拳鼻(こぶしばな)つきの斗供(ときょう)をあげています。 中備(なかぞなえ)は撥形の蓑束(みのづか)を配し、四隅では尾垂木(おだるき)を入れ、隅木との間に繰型の多い手挟みを飾っています。二軒 繁垂木(しげたるき)、妻飾り叉首組(さすぐみ)、拝み(おがみ)に猪目懸魚(いのめげぎょ)をうつ。下層では、堅板張目板打ちの裾広がりの袴腰をつくり、上端に台輪をすえ、和様二手先斗供で目透かし板張りの縁をうけ、刎高欄(はねこうらん)をおき、中備には蓑束を飾る。この鐘楼は、「両山暦譜」によれば、寛永10年(1633)に竣工しており、古材の再利用や後世の修理も加わっていますが、本興寺では開山堂・三光堂・方丈に次いで古い建物です。(資料:尼崎市)
【御霊水井戸】
 御開山日隆聖人、応永27年(1420)当山創建の砌り、聖人が境内の乾の方角に井戸を掘られたところ清水がこんこんとして溢れでて、水の乏しい尼崎住民の渇きをうるおすこと数世紀、市制上水道完備の大正5年まで、市民の飲料に供された。
 如何なる炎天にも不増不滅の霊水として、今なお世人の崇敬するところである。(資料:本興寺案内板より)

【笠塔婆】
 花崗岩製で、総高150.3cm。高さ29.5cmの基礎の上に、方柱状の高さ74.9cmの塔身を立てて、20.9cmの笠を置き、その上に宝珠を飾っています。基礎は中央複弁一葉の左右に間弁を配し、隅複弁の反り花を刻出しています。背面は不明ですが、三面は輪郭付き格狭間(こうざま)入りで、正面と右側には線刻の近江式装飾の開花蓮を飾っています。
 この笠塔婆は本興寺の歴代住職の墓の中でも規模が最大であるだけでなく、時期的にも最も古く15世紀中頃の造立と考えられています。基礎に兵庫県下でも珍しい近江式装飾文の開花蓮を飾ったり、笠の露盤を輪郭付き格狭間入りとし、請花に単弁八葉を刻み、さらに宝珠を高台上にのせるなど細部の手法が丁重をきわめています。それは外観だけでなく塔身の上端のほぞや笠の下端のほぞ穴を二重につくるなど目の届かぬ点にも見られます。この形式が以後の住職墓の基本になったことも注目されます。なお、本笠塔婆は、もと本興寺北西隅の墓地にありましたが、昭和57年に現在地に移されました。(資料:尼崎市)

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