大覚寺 ・ だいかくじ (律宗)
尼崎市、大覚寺・だいかくじ(律宗)
■所在地:尼崎市寺町9/阪神「尼崎」南西約450m
◎参考:大覚寺文書、大覚寺弁財天堂
 当寺は、建治元年(1275)に尼崎に来たと伝えられる琳海(りんかい)上人が道場を創め、同地にあった値願(ちがん)上人創建の漁民や海運業者の信仰が厚い燈炉堂も嘉暦元年(1326)には寄進されて寺容を整えました。残された絵図によれば寺内には市庭(場)が設けられ住民の公共施設としての機能も果たし、宗教だけでなく政治・経済・文化全般にわたっる中心になっていたことが分ります。
南北朝時代には両朝の将師がそれぞれ当寺を本拠とし、足利2代将軍義詮(よしあきら)などは半年にわたって在陣しました。元和年間尼崎城築城にあたって旧東本町から現在地に移転。伝日羅像は市内最古の仏像でしたが、火災で大破しました。如来の立像と考えられており、製作時期は平安時代前期までさかのぼるようです。また、鎌倉時代の正和2年(1589)から天正17年(1589)にいたる大覚寺文書は中世の尼崎を知る貴重な史料で、昭和42年県指定文化財に指定されました。(尼崎市教育委員会)

鎌倉時代の1275年(建治元年)には、東大寺円照上人の弟子、琳海上人が石清水八幡・大乗院座主を辞して大覚寺の住持となり、加茂神社の管理者として、長洲荘を支配し、港湾経済都市尼崎の発展に貢献した。
また、南北朝・室町時代には足利2代将軍足利義詮が半年間在陣し、大覚寺城と呼ばれ、政治・経済・軍事・文化の権力を掌握するなど、大覚寺の境内の市庭を中心として、中世都市尼崎が形成されたと言われている。
1617年(元和3年)戸田氏の尼崎城築城にともない現在地に移転し、尼崎藩のご祈祷所として、藩主・藩領などの安寧豊楽を祈願してきた。なお、大覚寺に伝わる56点の、正和2年から天正17年(1313〜1589年)に至る間の文書(『大覚寺文書』)は尼崎の中世を今に伝え、兵庫県文化財に指定されている。
◎大覺寺の沿革
大覺寺の創建は、推古13年(605年)に聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じられて長州の浦(現在の大物)に建立された「燈炉堂」が起源と言われています。本尊は十一面千手観世音菩薩で、漁民や海運業者の信仰を集めていました。
南北朝・室町時代には、足利二代将軍義詮が半年間在陣し、 大覺寺城として政治 ・ 経済 ・ 文化 ・ 軍事の権力を掌握していました。
後伏見上皇の中宮のご安産祈願を当寺で行い、量仁親王(光厳天皇) がめでたく誕生され、大がかりな祝典があげられた記録も残されています。
正和10年(1315年)の大覺寺絵図からは、建立当時の様子がうかがえます。
元和3年(1617年)築城に伴い、現在の寺町に移転し、尼崎藩領などの 安寧豊楽を祈願する御祈祷所としての役割を担ってきました。
明治10年(1877年)より、二度にわたる大火に見舞われ、昭和13年に現在の関西初の桃山様式鉄筋コンクリートの本堂が再建されました。所蔵文書の内、正和2年から天正17年までの中世文書五十六点は、 県指定文化財に指定されています。
平成7年の阪神・淡路大震災では一部建物が被害を受けましたが、 早期に復旧いたしました。その後、平成11年には大覺寺文書にも登場する閻魔曼荼羅を祀る閻魔十王像。大覺寺狂言に出家座頭狂言「十王堂」を加え、弁財天堂修復に伴い、 新たに弁財天像と十六童子像を奉安しました。
◎年間行事
1月1日 修正会
2月3日 節分祭
2月11日 紫燈大護摩
3月21日 春彼岸会
4月8日 常楽会
6月1日 歓喜天大祭
6月29日 琵琶法師覚一忌
8月18日 施餓鬼会
9月23日 秋彼岸会
12月20日 すす払い
◎毎月行事
8日 薬師如来例祭
1日、16日 地蔵菩薩例祭
18日 密教瞑想、阿字観
1日、16日 歓喜天例祭
21日 弘法大師御影供
24日 弁財天例祭
21日 写経、写佛会
【大覚寺狂言】
2月3日の節分の日に開かれる「節分祭」では、境内で狂言が上演されます。

 大覚寺では毎年2月3日、恒例の「節分祭」が開かれ、午前10時から午後8時まで檀家の人々らによる「大覚寺狂言」が上演されます。当日は約1万人の人出が訪れ、節分の豆まき、狂言を楽しみにしています。
 大覚寺によると、江戸時代に身ぶり狂言が奉納されていたが、幕末になって一度廃れてしまいました。戦後、昭和28年(1953年)に「大覚寺狂言」として復活させ、毎年この時期に奉納を続けています。
 曲目は、鬼を追い払う「節分厄払い」「芦刈男(あしかりおのこ)」や「閻魔庁」など7曲が披露されます。
 午後2時、4時、6時、8時には「豆まき」があり、午後2時の回では尼崎市長、商工会議所会頭、他が出席されます。
平成21年(2009年)の「節分祭」 |≫平成19年(2007年)の「節分祭」


【尼崎寺町「大覚寺」に常設舞台完成】
 京都の壬生寺で行なわれる「壬生狂言」は結構有名なのですが、尼崎市寺町にある大覚寺にも、同様の「大覚寺狂言」なるものがあります。ただ、今まで、常設の舞台が無かったのですが、この度、念願の常設舞台が完成しました。
 本堂右手前に隣接して能舞台が建設されています、節分に能舞台を使うために新築したとの事。境内には弁天様や上加茂神社、下加茂神社などがまつられています。
 大覚寺は現存する尼崎最古の名刹であり、寺伝によれば、605年(推古天皇13年)聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて、夜々瑞光に輝く長洲の浦(今の大物・東本町)に建立した燈炉堂が起源と伝わる。
【大覚寺弁財天堂】(だいかくじべんざいてんどう)
(附 弁財天社1棟・棟札1枚)
・建造物:尼崎市指定文化財
・指定日:平成14年3月29日
 桁行1間、梁間1間、唐破風屋根造、本瓦葺きの建物です。この建物は、棟木に残る墨書(住持名)から寛保3年(1743)から宝暦5年(1755)の間に弁財天社の唐門を改修して弁財天堂として建立されたものであることがわかります。
 唐門としての建立年代は明らかではありませんが、彫り物などの細部様式から17世紀初頭の建立と考えられます。
 市内では数少ない17世紀初頭の唐門遺構としてのみでなく、江戸時代における建物転用のあり方を示すものとして貴重です。(資料:尼崎市)
大覚寺弁財天堂
【大覚寺文書】(だいかくじもんじょ)
・書 跡:56点(兵庫県指定重要文化財)
・指定日:昭和42年3月31日
 大覚寺は律宗寺院で、寺伝によれば推古13年(605)に聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて造営したとありますが、詳細は明らかではありません。中世には、尼崎町の市庭町にありましたが、元和3年の尼崎城築城にともない現在地に移転しました。
 大覚寺文書は、大覚寺に伝わる56点の、正和2年(1313)から天正17年(1589)に至る間の文書で、中世尼崎の史料として貴重なものです。尼崎の南部一帯の地は古く東大寺の荘園領有における土地支配と賀茂御祖社の御厨供御人に対する人間支配が重なり合い、両者は激しく領有を争いました。大覚寺文書はこの重複型荘園の典型とされる地における相論の在地史料を含んでいる点で有名です。(資料:尼崎市)

【大覚寺絵図】
 正和4年(1315)の「大覚寺絵図」は当時の境内や伽藍配置が詳細に記されており、長洲荘領主鴨御祖社社家や荘園代官、沙汰人らが同寺の安泰を保証した証文など中世の尼崎を知る上で貴重な史料となっています。(資料:尼崎市)
大覚寺絵図
閻魔十王像謹刻によせて  大仏師 松 本 明 慶
閻魔堂の中に祀られ、庶民に閻魔さんと親しく呼ばれて根ずいた閻魔信仰。
平安時代から鎌倉時代にかけて、 閻魔十王はよく彫刻されましたが、現存する多くは、江戸時代の作品です。十王像すべてが残っている場合は少なく、優れた作品を目にすることは稀でしょう。
 

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